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◆四辻清子
1840-1902、幕末-明治時代の女官。天保(てんぽう)11年12月生まれ。権(ごんの)大納言四辻公績(きんいさ)の娘。安政3年祐宮(さちのみや)(明治天皇)付き。万延元年祐宮立太子にあたり高松と称し慶応3年明治天皇の典侍(ないしのすけ)となる。明治4(1871).8.1、権典侍、紅梅典侍。中納言典侍とも。46年間側近としてつかえた。のち室町清子。明治35年1月10日死去。63歳。
◆父・四辻公績
江戸後期の公卿。四辻公説の子。大納言正二位に至る。慶応3年(1867)歿、56才。室町家(むろまちけ)は、藤原北家閑院流西園寺家の庶流の公家・華族。公家としての家格は羽林家、華族としての家格は伯爵家[1]。
四辻家と称した時期もある[2]。西園寺家・洞院家・清水谷家とともに西園寺流四家のひとつ。江戸時代初頭、四辻公遠の娘・与津子は後水尾天皇の典侍となり、天皇の寵愛を受けて皇子(夭折)と皇女(後の文智女王)を儲けたが、徳川秀忠の娘和子の入内を企む江戸幕府の圧力によって無理矢理天皇から遠ざけられて落飾させられた[3]。また、これに先立って与津子の姉(死後「桂岩院」と称される)は上杉景勝の継室となり、嗣子定勝を出産したが、百日余り後に死去した。また、猪熊事件で処刑された猪熊教利も公遠の子(桂岩院・与津子の兄弟)で、一時期高倉家及び山科家の当主になったものの、朝廷内の事情で当主を退いて別家を立てたことが明らかになっている。江戸時代後期に内大臣徳大寺実堅(東山天皇男系曽孫)の子公績が養子に入ったことから、これ以降天皇男系子孫の家系となっている。江戸時代の家禄は200石だった[2][注釈 1]。家業は神楽、和琴、箏[2]。屋敷は梨木町[2]。
◆主な兄弟
四辻 公賀
江戸時代末期から明治時代の公卿。官位は正三位、参議。権大納言四辻公績の子として生まれる。嘉永5年(1852年)に叙爵、翌嘉永6年(1853年)に元服、昇殿、文久元年(1861年)に侍従、従四位下に昇進、慶応元年(1865年)に参議、翌慶応2年(1866年)に従三位に昇進した。維新後は越後府知事・陸軍将・宮内権大丞・雅楽助を歴任した。
烏丸 光徳
幕末・明治期の政治家。尊王攘夷派公家として活動し、明治維新後は初代東京府知事を務めた。天保3年(1832年)、権大納言烏丸光政の子として生まれる。慶応3年(1867年)12月、王政復古によって新設された参与の一人となる。慶応4年/明治元年(1868年)4月に参議となり、5月には東征大総督有栖川宮熾仁親王とともに江戸に下向、軍政下で江戸府が開設されると、5月24日に江戸府知事となった。江戸には旧江戸幕府町奉行所を吸収した南北市政裁判所が置かれていたが、7月22日に南北市政裁判所を合併して東京府が設置される。烏丸光徳は8月20日付で初代東京府知事となった。東京府設置後も府の実態は市政裁判所の延長に過ぎず、京都から来た公卿は知事としての職務を遂行することが難かった。11月7日には東京府知事を辞任し、京都に戻った。明治2年(1869年)には賞典禄50石を授けられ、華族制度の発足によって華族になっている。明治2年(1869年)9月に宮内大輔となったが、宮中改革の実行には力量不足と判断され、明治4年(1871年)6月に辞任。その後、皇后宮大夫を務めた。
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